爽やかな風

いたりいなかったりします

言えない

 


この頃、死に方について考える。

死に方といっても、死にたくて、どうやって死のうか?ということではない。

 


生まれ方と死に方は選べないので生き方くらいは自分の好きなようにしたらいいのに、と自分に対してよく思うのだけど。だから自分の望む体で生きればいいのに、と思うのだけど。

結局、死に方も生き方なのだと近頃は思うようになった。

 


死に方(死に様ともいうのかもしれない)は残された人たちから見ると重要な指標かもしれない。

その人は幸せな人生を過ごしてきたのか、悲しい幕切れだったのかどうかは死に方に引っ張られがち。

大切な人に見守られながら寿命を全うしていく人と、誰もいない部屋で1人静かに命を絶つ人。

おおよその、残された人たちは、前者を"幸せな人"として認識するのかもしれない。

 


それでも、死ぬ瞬間の気持ちというのは、当たり前の如く本人にしか分からず、いくら推し量っても到底知り得るものではないので、その人が幸せな生き方をしたかどうかは、結局他人からは微かで朧気で、厚い厚い雲に覆われた月の光のようなものなんじゃないか。

自分が他人を幸だ不幸だと、一部の姿を見て推察し、考察するのと同じように、自分も他人にいずれ評価される時がくるんだろうか。

その評価をどれほど重要視するかは人それぞれだけど、結局、死んだあとには知り得ないことなので、私は気にしないとおもう。

 


自ら命を絶つことは悲しいことで、それは私にとって紛れもない事実だけど、同時にその人が己の最期をどう感じたのかは、どうしたって知り得ない。

この世に悲観したのか、辛さを感じていたのか、単に生きる目的や理由がなくなったのか(これと絶望感とはまた別物だとおもう)。

その人の口で語られないものは結局後からつけた薄い味付けに過ぎない。

だから、自ら命を絶った人に対して、はやすぎるとかもったいないとか、そんなこと、とても言えない。辛さの中でほぼ一択の選択だったのであれば、なんとか向こうで幸せに過ごしてほしいとおもうし、もし未練を残していたら、自分の決断を否定して更に自分を傷つけるのはやめてほしいとおもうし、これで楽になれるんだと解放感を感じながらの最期なら、今ごろ穏やかになれていたらいいなとおもうけど、結局どれかなんて分からない。

 


最期だけでその人の人生が決まるわけではない、ということを忘れずにいたい。

大切な人と過ごした時間も、なにかに熱中してもがきながら成長した時間も、苦しみも悲しみも幸せも、全てが混在しながら生きていた事実は消えない。幕を自分の手で引くのであればそれもまたその人の生き方だったんじゃないのか、とすら思う。人の生き方に対して、かわいそうだとか、もったいないだとか、どうしたって私は言えない。それこそが、その人を苦しめていた原因のひとつなのではともおもうけど、結局それだって憶測にしかなり得ない。

もう会うことが叶わないなら、少しでも幸せな時間を思い出して穏やかに過ごしていてほしいと願う。ただそれだけしかない。